201010読んだ本【バカチン】&おまけ【バカチン2冊】
靴に防水スプレーかけたのに靴下の先が濡れた(-ω-、) そのお蔭でこの程度で済んだと考えよう(^o^)丿
【読んだ本(バカチン)】
倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)所蔵本
当時は他人を実名で呼ばず官職名で呼んだが、藤原道長の日記『御堂関白記』もその例外ではなく、
本書も倉本一宏が人名を補って訳しているけど、本書の中巻&下巻の「春日祭使」に補われた人名が
間違っていることを、一昨日&昨日に指摘オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) だが、間違って補われていたのは
実は人名だけではなかった∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
八日、癸未。 開関/蔵人頭・蔵人・殿上人定
・・・春日祭使(藤原)兼綱の許に、舞人の下重と絹五十疋を送った。・・・
この本書の長和5年(1016年)2月8日条の「兼綱」が兼経の間違いであることは昨日指摘v( ̄∇ ̄)ニヤッ
七日、丁未。 小除目/春日祭神馬使
・・・鴨川に出て、春日祭に神馬使を出立させた。使は和泉守(藤原)朝元であった。
申剋の頃、近衛府使(藤原)兼経が参入した。この使の許に、舞人の下重、および
絹百疋を送った。
当時の春日祭は2月と11月にあり、この長和5年(1016年)11月7日条によると、この年の2月に続き、
11月も兼経が春日祭使を勤めたことが判る(⌒~⌒)
さて、驚いたのは、本書の長和5年(1016年)7月20日条の記述だ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃこりゃ!?
二十日、壬戌。 敦康親王に絹・米を送る/春日祭使を恐懼に処す
・・・障りがあると称したことが虚偽であることが明らかとなったので、
春日祭使(藤原)兼綱・(源)顕定・(源)親方を恐懼の処分に処した。
同じ長和5年(1016年)の2月8日条と11月7日条に出てくる春日祭使が兼経なのに、その間の7月20日条
に「春日祭使(藤原)兼綱」が出てくるなんて、チトおかしくないですかねC= (-。- ) フゥー そもそも
春日祭使は春日祭のある2月と11月だけ任命されるのに、7月に「春日祭使」というのがヘン(¬。¬ )
本書と底本が同じ国際日本文化研究センター「摂関期古記録データベース」だと次の通りv( ̄∇ ̄)ニヤッ
二十日、壬戌。・・・障らざること分明たるに依りて、兼綱・顕定・親方等を恐に候ず。
「春日祭使」という事実と異なる役職名を勝手に補ってんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
【おまけ(バカチン2冊)】
犬養廉&後藤祥子&平野由紀子(校注)『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店,1994)所蔵本
伊井春樹&津本信博&新藤協三『私家集全釈叢書7 公任集全釈』(風間書房,1989)所蔵本
親バカ藤原道長は、息子の頼通が春日祭使として出立した翌日の『御堂関白記』寛弘元年(1004年)
2月6日条に、藤原公任へ送った「若菜摘む春日の原に雪降れば心遣ひを今日さへぞやる」という歌も
記したが(倉本一宏[全現代語訳]『藤原道長「御堂関白記」(上)』[講談社学術文庫,2009])、
同歌は公任の返歌とともに勅撰集『後拾遺和歌集』に入集し、公任の家集『公任集』にも出てる(^^)
その『公任集』の同歌の詞書にある「春日の使(ひ)」の語釈を本書からそれぞれ引く(@_@;)
藤原氏の氏神春日大社の祭(二月・十一月)に藤原氏の中少将が派遣される慣例。
長保六年(一〇〇四)二月五日、少将頼通が使いに立った。この年十三歳。
藤原氏の祖神春日神社に、二月と十一月の祭の際、前日藤原氏の中少将が遣された。
ここは寛弘元年(一〇〇四)二月五日に少将頼通が出立したことを指す。この時
頼通一三歳。
『御堂関白記』から判るだけでも春日祭使は「藤原氏」に限らないぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
以下に倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」』(講談社学術文庫,2009)の上中下巻から
「藤原氏」以外の春日祭使の記述を引いておくオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
長保2年(1000年)2月11日条
・・・春日祭使(源頼定)の許に袴を送った。
寛弘2年(1005年)2月5日条
東対から春日祭使を出立させた。左頭中将(源経房)の代官として、
右衛門権佐(藤原)孝忠朝臣を用いた。・・・
寛弘4年(1007年)2月3日条
・・・左頭中将(源頼定)が来て、一条天皇の仰せを伝えて云ったことには、
「明日の春日祭の近衛府使である(藤原)頼親が、代官を立てることを申請
してきた」と。「右馬助(平)孝義に代官を命じた」ということだ。
寛弘8年(1011年)2月10日条
・・・春日祭使が内裏の穢に触れたことを申してきたので、右少将(源)経親が
奉仕せよとの天皇の仰せが有った[ただし、14日条に「・・・春日祭使経親が、
代官を申請してきた。左馬助(藤原)惟忠を代官とした。・・・」とある]。
長和2年(1013年)2月9日条
・・・また、頭中将[藤原公信]が云ったことには、「昨日、近衛使の
(源)経親が、『病悩がございます』と申して、代官を申請してきました。
そこで天皇は右馬助(源)頼職に近衛使を命じられました」ということだ。・・・
長和2年(1013年)11月7日条
・・・小南第から春日祭使(源)雅通が出立する。・・・
長和4年(1015年)11月1日条
・・・春日祭の近衛府使(源)朝任に、下重、および疋絹のための絹を送った。・・・
寛仁2年(1018年)11月1日条
春日祭使左近少将(源)実基に、舞人の下重、および疋絹少々を送った。・・・
春日大社=藤原氏あるいは近衛府の中将・少将ポストは藤原氏が全て独占と思い込んでるのか(^_^;)
なお、『平安私家集』巻末の「人名索引」、藤原実資や筑前(康資王母)の項で挙げられてる歌番号
が間違ってることを指摘したが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-12 )、
源兼澄や小馬命婦の項のも間違っていたから、他にも沢山ありそうヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
一首ずつ見て抽出ではなく原稿ファイルを検索しただけだからだろう(-"-) デジタル化、笑止(^_^;)
容疑者は冤罪ゆえ真犯人を探す探偵の如き知的興趣があった一昨日昨日に比べ、つまらんな(-ω-、)
[追記201011]
『栄花物語』の藤原頼通の春日祭使の件を、山中裕&秋山虔&池田尚隆&福長進(校注・訳)『新編
日本古典文学全集31 栄花物語①』(小学館,1995)で見たら、364頁頭注12に「春日の使」について
次の説明で、「藤原氏」に限ってない(⌒~⌒)
二月と十一月の上の申[さる]の日に行われる春日祭に勅使として遣わされる
近衛府の中・少将。・・・
[追記201018]
倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)巻末「付録」の「用語解説」
もバカチンヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!! 同書252頁の「春日祭」の項の解説は次の通り(@_@;)
二月・十一月の上の申の日に行なわれた奈良春日社の祭。近衛府使を
摂関家の中将・少将が勤めた。社頭の儀のみならず、途中の儀も重視された。
同書218頁の寛仁3年(1019年)2月「六日、甲午。 春日祭使料の袴、触穢/俊賢の辞表、返却/和泉
守の籤符/皇太后宮蹴鞠/触穢の道長春日祭奉幣使」には「・・・祭使料の袴は、穢によって止めた。
このことを(石作)忠時を介して太皇太后宮大夫〈(源)俊賢。〉の許に伝えた。明日の祭使は
右少将(源)隆国[=俊賢の子]である。・・・」とあるように、源隆国は「摂関家」に非ず(-"-)
[追記210216]
橘健二&加藤静子(校注・訳)『新編日本古典文学全集34 大鏡』(小学館,1996)173頁「春日の使」
の頭注16には「・・・藤原氏の中少将から勅使が選ばれ、・・・」ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
【読んだ本(バカチン)】
倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)所蔵本
当時は他人を実名で呼ばず官職名で呼んだが、藤原道長の日記『御堂関白記』もその例外ではなく、
本書も倉本一宏が人名を補って訳しているけど、本書の中巻&下巻の「春日祭使」に補われた人名が
間違っていることを、一昨日&昨日に指摘オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) だが、間違って補われていたのは
実は人名だけではなかった∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
八日、癸未。 開関/蔵人頭・蔵人・殿上人定
・・・春日祭使(藤原)兼綱の許に、舞人の下重と絹五十疋を送った。・・・
この本書の長和5年(1016年)2月8日条の「兼綱」が兼経の間違いであることは昨日指摘v( ̄∇ ̄)ニヤッ
七日、丁未。 小除目/春日祭神馬使
・・・鴨川に出て、春日祭に神馬使を出立させた。使は和泉守(藤原)朝元であった。
申剋の頃、近衛府使(藤原)兼経が参入した。この使の許に、舞人の下重、および
絹百疋を送った。
当時の春日祭は2月と11月にあり、この長和5年(1016年)11月7日条によると、この年の2月に続き、
11月も兼経が春日祭使を勤めたことが判る(⌒~⌒)
さて、驚いたのは、本書の長和5年(1016年)7月20日条の記述だ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃこりゃ!?
二十日、壬戌。 敦康親王に絹・米を送る/春日祭使を恐懼に処す
・・・障りがあると称したことが虚偽であることが明らかとなったので、
春日祭使(藤原)兼綱・(源)顕定・(源)親方を恐懼の処分に処した。
同じ長和5年(1016年)の2月8日条と11月7日条に出てくる春日祭使が兼経なのに、その間の7月20日条
に「春日祭使(藤原)兼綱」が出てくるなんて、チトおかしくないですかねC= (-。- ) フゥー そもそも
春日祭使は春日祭のある2月と11月だけ任命されるのに、7月に「春日祭使」というのがヘン(¬。¬ )
本書と底本が同じ国際日本文化研究センター「摂関期古記録データベース」だと次の通りv( ̄∇ ̄)ニヤッ
二十日、壬戌。・・・障らざること分明たるに依りて、兼綱・顕定・親方等を恐に候ず。
「春日祭使」という事実と異なる役職名を勝手に補ってんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
【おまけ(バカチン2冊)】
犬養廉&後藤祥子&平野由紀子(校注)『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店,1994)所蔵本
伊井春樹&津本信博&新藤協三『私家集全釈叢書7 公任集全釈』(風間書房,1989)所蔵本
親バカ藤原道長は、息子の頼通が春日祭使として出立した翌日の『御堂関白記』寛弘元年(1004年)
2月6日条に、藤原公任へ送った「若菜摘む春日の原に雪降れば心遣ひを今日さへぞやる」という歌も
記したが(倉本一宏[全現代語訳]『藤原道長「御堂関白記」(上)』[講談社学術文庫,2009])、
同歌は公任の返歌とともに勅撰集『後拾遺和歌集』に入集し、公任の家集『公任集』にも出てる(^^)
その『公任集』の同歌の詞書にある「春日の使(ひ)」の語釈を本書からそれぞれ引く(@_@;)
藤原氏の氏神春日大社の祭(二月・十一月)に藤原氏の中少将が派遣される慣例。
長保六年(一〇〇四)二月五日、少将頼通が使いに立った。この年十三歳。
藤原氏の祖神春日神社に、二月と十一月の祭の際、前日藤原氏の中少将が遣された。
ここは寛弘元年(一〇〇四)二月五日に少将頼通が出立したことを指す。この時
頼通一三歳。
『御堂関白記』から判るだけでも春日祭使は「藤原氏」に限らないぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
以下に倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」』(講談社学術文庫,2009)の上中下巻から
「藤原氏」以外の春日祭使の記述を引いておくオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
長保2年(1000年)2月11日条
・・・春日祭使(源頼定)の許に袴を送った。
寛弘2年(1005年)2月5日条
東対から春日祭使を出立させた。左頭中将(源経房)の代官として、
右衛門権佐(藤原)孝忠朝臣を用いた。・・・
寛弘4年(1007年)2月3日条
・・・左頭中将(源頼定)が来て、一条天皇の仰せを伝えて云ったことには、
「明日の春日祭の近衛府使である(藤原)頼親が、代官を立てることを申請
してきた」と。「右馬助(平)孝義に代官を命じた」ということだ。
寛弘8年(1011年)2月10日条
・・・春日祭使が内裏の穢に触れたことを申してきたので、右少将(源)経親が
奉仕せよとの天皇の仰せが有った[ただし、14日条に「・・・春日祭使経親が、
代官を申請してきた。左馬助(藤原)惟忠を代官とした。・・・」とある]。
長和2年(1013年)2月9日条
・・・また、頭中将[藤原公信]が云ったことには、「昨日、近衛使の
(源)経親が、『病悩がございます』と申して、代官を申請してきました。
そこで天皇は右馬助(源)頼職に近衛使を命じられました」ということだ。・・・
長和2年(1013年)11月7日条
・・・小南第から春日祭使(源)雅通が出立する。・・・
長和4年(1015年)11月1日条
・・・春日祭の近衛府使(源)朝任に、下重、および疋絹のための絹を送った。・・・
寛仁2年(1018年)11月1日条
春日祭使左近少将(源)実基に、舞人の下重、および疋絹少々を送った。・・・
春日大社=藤原氏あるいは近衛府の中将・少将ポストは藤原氏が全て独占と思い込んでるのか(^_^;)
なお、『平安私家集』巻末の「人名索引」、藤原実資や筑前(康資王母)の項で挙げられてる歌番号
が間違ってることを指摘したが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-12 )、
源兼澄や小馬命婦の項のも間違っていたから、他にも沢山ありそうヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
一首ずつ見て抽出ではなく原稿ファイルを検索しただけだからだろう(-"-) デジタル化、笑止(^_^;)
容疑者は冤罪ゆえ真犯人を探す探偵の如き知的興趣があった一昨日昨日に比べ、つまらんな(-ω-、)
[追記201011]
『栄花物語』の藤原頼通の春日祭使の件を、山中裕&秋山虔&池田尚隆&福長進(校注・訳)『新編
日本古典文学全集31 栄花物語①』(小学館,1995)で見たら、364頁頭注12に「春日の使」について
次の説明で、「藤原氏」に限ってない(⌒~⌒)
二月と十一月の上の申[さる]の日に行われる春日祭に勅使として遣わされる
近衛府の中・少将。・・・
[追記201018]
倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)巻末「付録」の「用語解説」
もバカチンヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!! 同書252頁の「春日祭」の項の解説は次の通り(@_@;)
二月・十一月の上の申の日に行なわれた奈良春日社の祭。近衛府使を
摂関家の中将・少将が勤めた。社頭の儀のみならず、途中の儀も重視された。
同書218頁の寛仁3年(1019年)2月「六日、甲午。 春日祭使料の袴、触穢/俊賢の辞表、返却/和泉
守の籤符/皇太后宮蹴鞠/触穢の道長春日祭奉幣使」には「・・・祭使料の袴は、穢によって止めた。
このことを(石作)忠時を介して太皇太后宮大夫〈(源)俊賢。〉の許に伝えた。明日の祭使は
右少将(源)隆国[=俊賢の子]である。・・・」とあるように、源隆国は「摂関家」に非ず(-"-)
[追記210216]
橘健二&加藤静子(校注・訳)『新編日本古典文学全集34 大鏡』(小学館,1996)173頁「春日の使」
の頭注16には「・・・藤原氏の中少将から勅使が選ばれ、・・・」ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
"(源)親方" 相撲部屋と思ってしまったり・・・凄い名前だ。
藤原 兼綱は春日祭使になったことがあるのかな?
by tai-yama (2020-10-10 19:36)
( ^o^)ノ◇ 山田く~ん "(源)親方" 相撲部屋と思ってしまったり座布団1枚 ♪
くだらな過ぎます(^_^;) 笑っちゃったけど(^_^;) 一昨日に紹介したように触穢
で交替しましたが、寛弘4年(1007年)10月26日条に兼綱が春日祭使に任じられた
ことは出てますし、問題の長和元年(1012年)2月の春日祭使も兼綱と愚考(^_^;)
by middrinn (2020-10-10 19:43)
前にかみさんがもふもふの冬ブーツをお安く買いましたが
防水スプレーしたのに底の部分との貼り合わせ(?)に
難があったらしく、雪の日に履いて思いっきり足が濡れたそうですw
「まさかの足が凍死寸前(*_*)」と帰ってきて
早々に足湯してました(⌒-⌒; )
by ニッキー (2020-10-10 21:23)
防水スプレーが無ければ、靴下はもっとびしょびしょになったに違いないと思います…(^^;
by ナベちはる (2020-10-11 01:05)
ブーツに水が入って、鬼コーチの目にも涙・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
ニッキー様は僕として鬼コーチの足を揉まされたりして(^_^;)
by middrinn (2020-10-11 07:19)
そうやって最悪の状況を想定することで、
ナベちはる様、救われますよね(^o^)丿
by middrinn (2020-10-11 07:21)
middrinnさんこんにちは。
雨のシーズン、役に立つ防水スプレーも、ご存じと思いますが、室内で使用するのは、危険が伴います。
フッ素化合物の気体が肺に入ると損傷の恐れが・・・
使用時には気をつけたいですね。
by ネオ・アッキー (2020-10-11 12:02)
たしかに、風通しの良い屋外で風向きにも注意とありました(^o^)丿
by middrinn (2020-10-11 12:38)
昨夜は車中泊でしたが、出歩いた際に駐車場の水溜まりで靴先から浸水(>_<) で、防水スプレーの効果がもう切れた....と考えました。メッシュの夏物スニーカーでしたが(^_^;)
by yokomi (2020-10-11 23:51)
メッシュのは流石の防水スプレーでも・・・(^_^;)
by middrinn (2020-10-12 07:16)