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200802読んだ本

絵画とは、頭で解して、心で感じるものなわけだけど、ホント難しいよね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
照ノ富士が一番凄いけど、やはり伊勢ヶ浜親方、そして今場所は照強も凄かったo(-`д´- o)ガンバッタ!!

【読んだ本】

内藤正人『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい 歌川広重 生涯と作品』(東京美術,2007)

広重の「桜に猿」(「桜に繋ぎ猿」「桜花に猿」)について本書44頁は「虚空を凝視する猿と可憐な
花の対比の妙」として次の解説を載せるが、内藤正人は書いてて不思議に思わなかったのか(@_@;)

    広重は花鳥画に秀でたが、魚貝以外にも鳥獣を描いた作例が残される。
    桜の花に猿引きの猿をとりあわせるこの図なども、北斎には描き得なかった
    世界である。はらはらと落ちかかる花びらを尻目に物思う表情の猿が愛らしく、
    あるいはまた憐憫の情をも誘う。「人煙一穏秋村僻 猿叫三聲暁峡深」(画賛)。

本書38頁の「詩情に富む花鳥画の世界」に「広重の同種の作品では、ときに画中に寄せられる画賛も
雰囲気を醸し出しているが、実はそれらは松露菴烏明編『俳諧故人五百題』(一七八四年刊)など
古句を収めた種本の存在も指摘される。」とあり、上記画賛が『俳諧故人五百題』に含まれてるかは
知らないが、藤原公任撰の『和漢朗詠集』に作者は紀長谷雄で詩題は「秋山閑望」として入っている
漢詩文が元ネタなのは判った(⌒~⌒)

上記画賛の元ネタである漢詩文の訓読文と現代語訳を菅野禮行(校注・訳)『新編日本古典文学全集19
和漢朗詠集』(小学館,1999)から引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    人煙一穂秋の村僻れり[じんえんいつすいあきのむらさかれり]

    猿叫三声暁峡深し[ゑんけうさんせいげうけふふかし]

     かまどの煙が、一筋稲の穂のような形で立ち上り、
     人里から遠く離れた村は秋になっていっそう寂しい。

     猿の叫び声が幾度となく、暁の奥深い谷間に聞こえて、
     もの悲しさもひとしおだ。

指摘してる人を見たことないが、広重「桜に猿」の画賛は「一穂」を「一穏」と誤記( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
広重が漢詩文の意味も解せずに画賛として用いた単なるバカチンの可能性もあるわなC= (-。- ) フゥー

「猿叫三声」は『白氏文集』( https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-07-26 )を
踏まえた表現だろうし、「峡」は「三峡」(←野猿が多く、古来よく猿の声とともに詩に詠まれた)
を響かせている語と解せるならば、捕らわれた子猿を思って泣き叫ぶ母猿の声をも連想させるので
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-07-27 )、「もの悲しさもひとしお」(;_;)

『江談抄』にも〈「人煙」は近代は忌みて作らず。〉という左注とともに入っていて(人を焼く煙=
荼毘の煙の意にもとられるため)、後藤昭雄&池上洵一&山根對助(校注)『新日本古典文学大系32
江談抄 中外抄 富家語』(岩波書店,1997)の山根對助&後藤昭雄(校注)『江談抄』第四の九一の
脚注一二(同書151頁)も「秋の辺鄙な村里に人家から一筋の煙が立ち昇り、明け方の奥深い山の谷間
に猿の叫び声がいく度も響く。」とする(⌒~⌒) つまり、〈秋の悲しさ〉を詠んだ詩なのだ(⌒~⌒)

さて、内藤正人は猿と「桜の花」を描いた花鳥画に「秋」を詠んだ詩の画賛が書かれてるのを不思議
に思わないのかしら(@_@;) 内藤正人は「水葵に鴛鴦」の作品解説(本書45頁)で画中賛に関して
「・・・広重の花鳥画には多く詩歌が添えられて画趣を高める役割を果たしているが、絵師自身は
それらを種本からそのまま引用するなど、どうやら道具として使ったらしい。・・・」と記してるが、
「秋」の詩が「桜の花」と猿の画の「画趣を高める役割」をどう「果たしている」のかしら(@_@;)

ネット検索すると、「常温常湿希望」というブログの「日本美術の流れ@東京国立博物館」と題された
記事(⇒ https://melonpankuma.hatenablog.com/entry/2018/04/01/200000 )があって、次のように
読み解いていた(@_@;)

    満開の桜の下、絞りの衣装を着せられた幼猿は宙を睨むような表情をしている。
    「人煙一穏秋村僻 猿叫三聲暁峡深」は『和漢朗詠集』にある紀長谷雄の作で、
    「秋山閑望」とある。幼猿が、人に拐われる前の、過ぎ去った秋の山を
    思っているようで物悲しい。

この解釈の当否はさておき、狩野博幸「広重絵画の基層」(『浮世絵八華8 広重』[平凡社,1984]
所収)の次の記述、チト気になるところがある( ̄◇ ̄;)

    ・・・広重の花鳥版画の画賛には、和歌・漢詩・発句・狂句があるが、そのうち発句が
    もっとも多いこと、しかもそれらの発句の多くが、宝暦・明和期の句をおさめた
    俳書『故人五百題』(天明七年=一七八七、以後重版)によっていることを指摘したのも
    鈴木[重三『広重』日本経済新聞社]氏である。/この指摘の重要さは、現在でも日々
    大きくなっているというべきだろう。鈴木氏は広重の「俳趣味」に言及されている
    のであるが、・・・「すべて風韻なきものははぶき……」と広重は述べている。ここで
    広重のいう「風韻」という言葉こそ、おそらく鈴木氏のいわれる「俳趣味」と合致するもの
    であろう。その「風韻」は、いま筆者流にいい換えるなら、伝統的な感性に裏づけられた
    「抒情性」にあたるように思われる。そして、その広重の「抒情性」は、われわれ
    日本人がいわず語らずのうちに共同幻想として抱いている感受性なのである。広重は、
    この共同幻想のただなかに我が身を置いて作画する。・・・広重の拠りどころとするのは
    俳諧であり、「俳趣味」であった。/・・・

松浦友久『李白 詩と表象』(現代教養文庫,1970)に〈・・・杜甫の歌った「風急に天高くして猿嘯
哀し」(登高)が、〝猿の声〟と〝旅人の郷愁〟と〝秋の悲しさ〟の結合によって、中世中国的な
抒情感覚の典型だった・・・〉とあるように、〝猿の声〟と〝秋の悲しさ〟の「結合」は日本人の
「抒情性」に無い(^_^;) 〈・・・わが国では、結局のところ、猿声の悲哀は、和歌のイメージとして
定着しなかった。芭蕉は「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」という句を作っている。中国や平安時代
の漢詩人たち[ex.紀長谷雄]が、耳につんざくような猿声にはらったイメージを思い起こしながら、
秋風の中で泣きさけぶ捨て子のあわれな声と較べたならば、果たしてどちらが悲しいであろうか、と
述べたのである。既成のイメージに対する、芭蕉自身の懐疑が、ここにはある。〉と植木久行『唐詩
歳時記』(講談社学術文庫,1995)にあるが、広重の「桜に猿」はどう読み解くべきなのか(@_@;)

麻生磯次(訳注)『現代語訳対照 奥の細道 他四編』(旺文社文庫,1970)から『野ざらし紀行』の
「猿をきく人すて子にあきのかぜいかに」の訳を引いておく〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    猿の声を聞いて断腸の思いをする人よ、つめたい秋風の中に泣いている捨て子の声を
    どう聞くか、猿の声といえどもこの捨て子の泣き声ほど悲痛ではあるまい。

[追記200803]

広重の「桜に猿」の見方には大別すると3通り考えられることを提示した〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

1つ目は画賛を無視して絵だけで読み解こうとする見方(⌒~⌒) 具体的には、内藤正人の作品解説も
コレに該当(^^) 広重がバカチンの可能性もと指摘したが、広重にとっては、「画賛なんて飾りです!
絵心のある人にしかそれが解らんのですよ!」だったりして(^_^;) 外国人がイミフな漢字をタトゥー
したり、中国の漢文・漢詩の一部をデタラメに切り取って臨書してる日本の書道の作品と同じ(^_^;)

2つ目は画賛の内容を踏まえて絵を読み解こうとする見方(⌒~⌒) 引用した「常温常湿希望」という
ブログに出ていた解釈が典型的(^^) 立ち読みしただけゆえ記憶違いかもしらんが、太田記念美術館
監修『別冊太陽 日本のこころ265 広重決定版 没後169年記念』(2018年)に出ていた吉田洋子(山口
県立萩美術館・浦上記念館)による同作品の解説もそんな感じだったかと〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

3つ目は画賛の内容を掘り下げて比較文化論的に絵を読み解こうとする見方(⌒~⌒) 猿の声に悲哀を
感じる中国と感じない日本の文化の違いを芭蕉と同様に意識して、鈴木重三=狩野博幸が言うような
日本人の伝統的な感性に裏付けられた「抒情性」を読み込む立場(^^) 「桜の花」に積極的意義か(^^)
コメント(12) 
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コメント 12

ニッキー

絵画を見るのは好きですが、芸術的センス皆無の私は
巨匠たちの絵の良さがいまいちわからないので、
好きな作品かどうかで見に行く展覧会を決めてます(⌒-⌒; )
広重というと永谷園のお茶漬けが一番に浮かぶ私は
やっぱりセンスがw

by ニッキー (2020-08-02 21:13) 

middrinn

たとえ絵心が不足していても、頭(知識)で読み解けば、
絵画は愉しめます(^o^)丿 広重は切手「月に雁」(^_^;)
by middrinn (2020-08-02 21:19) 

tai-yama

夜中に山の中から響く猿の声は結構こわいですよ~。
あの声を聴くと、秋の季語にはならないかな。
by tai-yama (2020-08-02 23:15) 

mirro

知識は習得する面白さがあるのかと思いますが、
センス(心)は誰もが持っているもので、
好き嫌いがあるということは既にそこへのセンス、
その心があるということなのかなぁ~と思ったりします。
「桜に猿」知識はありませんが、散り行く桜の花弁が
猿の表情と相まって、繋がられているのは”人間”かもと、
私なんかは勝手に想像して悲哀共々面白がってしまいます(;´∀`)
by mirro (2020-08-02 23:46) 

ナベちはる

教養がないので、絵画を観ても基本的に「???」しか思い浮かばないです…orz
by ナベちはる (2020-08-03 01:15) 

middrinn

猿に狙われそうな食べ物を
tai-yama様が持ち歩いて
いらっしゃるから(^_^;)
by middrinn (2020-08-03 05:36) 

middrinn

センスも磨けるし、また年を経て変わっていくものかと愚考(^_^;)
「桜に猿」の見方には3通りあることを今回提示したつもりですが、
mirro様の解釈(猿は人間かもとは卓見!)は第一の広重バカチン説
の範疇に入るのかな(^_^;) 「画賛なんか飾りです!絵心のある人に
しかそれは分からんのです!説」とも言えるかもしれません(^_^;)
by middrinn (2020-08-03 06:19) 

middrinn

教養があると頭でっかちな見方になりますし、
面白~い!とか、下手だなぁ~などのような、
ナベちはる様、感性でも楽しめます(^o^)丿
by middrinn (2020-08-03 06:22) 

そら

どうも美的センスが無いものであまり良さが分からないけど
感動はする(^^;
照ノ富士優勝!
そういや白鵬はどしたの?休場?
by そら (2020-08-03 06:29) 

middrinn

感動されるのは心=センスがあるからですよ(^^)
場所中に負傷したらしく、途中から休場でした(..)
by middrinn (2020-08-03 06:33) 

yokomi

猿の声に悲哀を感じたことはありませんが、高速道路が近くに開通する前まで、夜中に鳴く鵺の声に悲哀を感じていました(^_^;) 今は昔(>_<)
by yokomi (2020-08-04 09:03) 

middrinn

鵺の声を聞かれたとは、八百比丘尼よりも御長寿だったのですねヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
by middrinn (2020-08-04 12:05) 

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