191117読んだ本&一昨日買った本
10年前に泊まった松本のビジネスホテルの枕の寝心地が超良かったので、同じ物(エステルパイプ枕)
を探しているが、そのメーカーに同じ物は既に無いみたい(´ヘ`;) 別メーカーで販売されているのは
サイズ&材質は同一も中材重量がエステル400g&パイプ150gで、ホテルのはエステル450g&パイプ250g
だったから、寝心地にビミョーな違いがありそうである(@_@;) 寝不足解消にはまだまだ遠い(-ω-、)
【一昨日買った本&読んだ本】
久富哲雄(全訳注)『おくのほそ道』(講談社学術文庫,1980)
小島直記『一燈を提げた男たち』(新潮文庫,2002)
一昨日に図書館へ行った帰りにブックオフで(^_^;) 小島直記はファンじゃないけど、活字が大きくて
110円だったから(´・_・`) 久富哲雄は学問的には古いのかもしれないけど、270円は掘り出し物か(^^)
現代語訳の他に、語釈、句解の分量が多くて、各章ごとに解説まである点が気に入った(^^) ところが、
むしろ語釈等が多すぎて作品の鑑賞を妨げてるなどと厳しく批判する人もいるんだねヒィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
和歌に関する知識も充分に持ち合わせてる教養人というより正岡子規を源とする実作者だったり(^_^;)
『おくのほそ道』のではないけれど、「春なれや名もなき山の朝がすみ」という芭蕉の句の面白さを、
和歌の知識も無いフツーの現代人が、この句だけを見て感じ取れるのかしら(@_@;) 今栄蔵(校注)
『新潮日本古典集成 芭蕉句集』(新潮社,1982)の頭注にある「歌枕とは異なる、なんの変哲もない
田舎道の山々の霞に春を感じ取った俳諧的新着想。」という簡潔すぎる解説を読んでも、おそらくは
イミフかと(^_^;) この句は和歌、特に『拾遺和歌集』以降の和歌の世界の約束事を知らないと理解
できないことは詳述したので(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-06 )、
本書に戻ると、本書巻末「解説」も指摘しているように『おくのほそ道』は「・・・歌枕巡礼記的な
性格を備えている・・・」点が何より重要(^^)v 井本農一『芭蕉入門』(講談社学術文庫,1977)も
「実は出発前にお供の曽良は、これから訪ねて行く奥羽・北陸の歌枕を調べてノートを作っています。
おそらく芭蕉の依頼によるものでしょう。歌枕は、和歌によってできた名所ですが、そこには日本の
文学的伝統がつながっています。」と指摘(⌒~⌒) つまり、芭蕉&曽良の歌枕を歴訪しての句作は、
歌枕を詠み込んできた多くの和歌をふまえているものである以上、歌枕や和歌などについての本書の
語釈・句解・解説の分量が増えるのは当然(^^) 芭蕉らの詠作意図を無視して作品を理解しようとする
アホや『古今和歌集』以来の「日本の文学的伝統」を否定する子規亜流の万葉バカには邪魔か(^_^;)
とはいえ、本書の章ごとの語釈、句解、解説は他書よりもヴォリュームがあるらしいけど、チラッと
読んだ限りでは、物足りない気もしないわけでもない(@_@;) そこで、本書の「白河の関」の本文と
現代語訳を引いてみる(@_@;)
心許なき日かず重なるまゝに、白川の関にかかゝて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と
便求めしも断也。中にも此の関は三関の一にして、風騒の人心をとゞむ。
秋風を耳に残し、紅葉を俤[おもかげ]にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、
茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めし事など、
清輔の筆にもとゞめ置かれしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良
待ち遠しく心せかれる旅の日数が積もって行くうちに、白河の関にやっと来て、
やっと旅の心も落ち着いた。昔、平兼盛がここまで来て、「この関を越えた感慨を
なんとかして都へ知らせたい」と、幸便を求めたというのも、もっともなことである。
古人が感慨深く越えた数多くの関所の中でも、とくにこの白河の関は三関の一つであって、
古来風雅を愛した詩人・歌人が関心を寄せ詩歌を残している。能因法師が詠んだ
秋風の音を今も耳に聞き、源頼政が詠んだ紅葉の情景を眼前に思い浮かべながら、
いま目の前に初夏の景色をながめると、青葉の梢もいちだんと情趣深いものがある。
古歌に詠まれた卯の花が白く咲いている上に茨の花が白く咲き加わって、雪景色の白さ
よりも白さが上まわっているような気持がする。昔の人がこの関を越えるとき、
冠をきちんとかぶり直し、衣服を正装に着替えたことなどが、藤原清輔の文章にも
書き留めて置かれたということである。
この白河の関を越えるに際し、古人は冠をかぶり直し正装に着替えたそうであるが、
いま自分には冠や着替えの用意はない。道端に白く咲いている卯の花を折り取って
かざしとし、それを関越えの晴着としよう。 曽良
一見して判るように、本文には出て来ない平兼盛、能因法師、源頼政の名が現代語訳に出てくるのは
本文が彼らの詠んだ和歌を下敷きにしてるからで、それらの和歌その他のことが語釈で指摘されれば、
本文&現代語訳が1頁半なのに対し、語釈は5頁、句解&解説も1頁余りもあるのも当然のことかと(^^)
本書の「古人冠を正し」の語釈を次に引くが、おそらく他書・類書に比べたら記述量は多そうだけど、
それでも小生には不充分に思えた(@_@;)
藤原清輔著『袋草紙』(貞享二年刊)巻三に「竹田大夫国行ト云者、陸奥ニ下向之時、
白川ノ関スグル日ハ、殊ニ装束ヒキツクロヒムカフト云々、人問ヒテ云ク、
何等ノ故ゾ哉。答ヘテ云ク、古曽部ノ入道ノ、秋風ゾフク白河ノ関ト読レタル所ヲバ、
イカデカケナリニテハ過ギント云々。殊勝ノ事歟」とあるのによった記述。
竹田大夫国行が白河の関を過ぎる時、能因法師が「秋風ぞ吹く」と詠んだ所だからと
敬意を表し、平服を正装に改めて通ったというのである。「冠を正す」は、
冠をきちんとかぶりなおすこと。
「貞享二年」=1685年は『袋草紙』の流布本である板本の刊行年で、『袋草紙』はモチ平安時代末期
の歌学書(^^) 『袋草紙』の上記引用部分も小沢正夫&後藤重郎&島津忠夫&樋口芳麻呂『袋草紙注釈
上』(塙書房,1974)の通釈で引いておきますか( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
竹田大夫国行という者は陸奥に下向した時に、白河の関を通る日には装束を改め、
水で鬢の毛をなでつけたという。人が「どういうわけか」とたずねると、彼は
「古曽部入道[能因法師]が『秋風ぞ吹く白河の関』という名歌を詠んだ所を
どうして平素の服装で通ってよかろうか」と答えた。まことに感心なことである。
本書の語釈の上記説明だと竹田大夫国行(勅撰歌人の藤原国行)が少し変人みたいに思われそうだし、
何に対しての「敬意」なのかもチト解り難いかと(@_@;) 『袋草紙』の当該節の数行前に出てる逸話
から本書は解説すべきだったと小生は思うわけC= (-。- ) フゥー 小沢正夫らの前掲書の通釈を引く(^^)
・・・/人々が大原という所に行楽に出た時に、みな馬に乗っていたが源俊頼
[『金葉和歌集』撰者]が急に馬を下りた。驚いてそのわけをたずねたところ、
彼は「ここは良暹法師[勅撰歌人で『小倉百人一首』にも]の古い坊の跡である。
どうして馬を下りないでよいのか」と答えた。これは能因[法師]に先例があるだろう。
能因は[藤原]兼房[勅撰歌人]の車の後に乗っていた時、二条東洞院でにわかに下りて
数町を歩いて行った。兼房がびっくりしてたずねると、能因は「ここは伊勢の御
[ナンバーワン女流歌人の伊勢タン]の家の跡である。彼女の家の中庭の枝を結んで
祈願をこめた松の木が今も残っている。どうして車に乗ってその前を過ぎられようか」
といって、松のこずえが見える間は車に乗らなかった。・・・
つまり、能因法師が伊勢タンに対し、源俊頼が良暹法師に対し、それぞれ「敬意」を払ったように、
竹田大夫国行も優れた歌人である能因法師に対し「敬意」を払ったわけ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
モチ本書もこのことを解っていることは、曽良の句についての本書の句解の次の一文から明らか(^^)
・・・故事を踏まえたところに、白河の関に「心とゞ」めた「風騒の人」に対する
挨拶の気持ちがある。・・・・
ところが、この「敬意」が向けられた先についてトンチンカンな解釈をしてるのが苑子タン( ̄◇ ̄;)
杉本苑子『おくのほそ道 人物紀行』(文春新書,2005)から問題の件を引くオホホホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
・・・/芭蕉も『袋草紙』を読んでいたからこそ、まさか冠を正し装束を改めは
しないまでも、曾良の句のように咲きさかる卯の花をひと枝、衿もとにでも挿して、
関守りたちへの、せめてもの敬意を表したのかもしれない。/ちなみに、
『袋草紙』には、竹田の大夫国行という者が、能因の歌に敬意を表し、
白河の関を過ぎる時、ことに身なりを整えて通ったという話が記されている。/
「能因ほどの歌詠みが、〝都をば霞とともに立ちしかど〟の名歌を遺した白河の関を、
われらごときが、旅疲れしただらしない恰好で通過しては、関所に対して失礼だ」と
烏帽子の誇りをぬぐい、小袖の衿もとを掻き合わせなどしたのだろう。/
名歌への敬意が、関への敬意につながり、そこを通過する旅人自身の、疲労も、
いささかだらけはじめてもいる心身を、きりッと引き緊めてくれたうれしさ……。/
この章での、曾良の一句、/卯の花をかざしに関の晴着かな/も、おもしろい。/
「わたくしどもは、しがない行乞の旅人、高価な衣服は持っておりませぬ。
せめて咲きさかる卯の花をひと枝かざして、お関所への敬意をあらわしとう存じます」
/・・・
「関守りたち」「関所」「関」「お関所」への敬意のわけがないだろヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
・『おくのほそ道』の遊行柳の件の西行の歌について苑子タン、また調べずに書いてるよ(ノ_-;)トホホ…
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-07-11
・光源氏に我が身を重ねた芭蕉を「蛸壺の中で眠るタコの気分になっている」と俳人の坪内稔典(゚ロ゚;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-07-04
・伊勢タンが後世の歌人から如何に尊敬されていたかという逸話と牛車の乗車降車の作法について(^^)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-06-11
を探しているが、そのメーカーに同じ物は既に無いみたい(´ヘ`;) 別メーカーで販売されているのは
サイズ&材質は同一も中材重量がエステル400g&パイプ150gで、ホテルのはエステル450g&パイプ250g
だったから、寝心地にビミョーな違いがありそうである(@_@;) 寝不足解消にはまだまだ遠い(-ω-、)
【一昨日買った本&読んだ本】
久富哲雄(全訳注)『おくのほそ道』(講談社学術文庫,1980)
小島直記『一燈を提げた男たち』(新潮文庫,2002)
一昨日に図書館へ行った帰りにブックオフで(^_^;) 小島直記はファンじゃないけど、活字が大きくて
110円だったから(´・_・`) 久富哲雄は学問的には古いのかもしれないけど、270円は掘り出し物か(^^)
現代語訳の他に、語釈、句解の分量が多くて、各章ごとに解説まである点が気に入った(^^) ところが、
むしろ語釈等が多すぎて作品の鑑賞を妨げてるなどと厳しく批判する人もいるんだねヒィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
和歌に関する知識も充分に持ち合わせてる教養人というより正岡子規を源とする実作者だったり(^_^;)
『おくのほそ道』のではないけれど、「春なれや名もなき山の朝がすみ」という芭蕉の句の面白さを、
和歌の知識も無いフツーの現代人が、この句だけを見て感じ取れるのかしら(@_@;) 今栄蔵(校注)
『新潮日本古典集成 芭蕉句集』(新潮社,1982)の頭注にある「歌枕とは異なる、なんの変哲もない
田舎道の山々の霞に春を感じ取った俳諧的新着想。」という簡潔すぎる解説を読んでも、おそらくは
イミフかと(^_^;) この句は和歌、特に『拾遺和歌集』以降の和歌の世界の約束事を知らないと理解
できないことは詳述したので(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-06 )、
本書に戻ると、本書巻末「解説」も指摘しているように『おくのほそ道』は「・・・歌枕巡礼記的な
性格を備えている・・・」点が何より重要(^^)v 井本農一『芭蕉入門』(講談社学術文庫,1977)も
「実は出発前にお供の曽良は、これから訪ねて行く奥羽・北陸の歌枕を調べてノートを作っています。
おそらく芭蕉の依頼によるものでしょう。歌枕は、和歌によってできた名所ですが、そこには日本の
文学的伝統がつながっています。」と指摘(⌒~⌒) つまり、芭蕉&曽良の歌枕を歴訪しての句作は、
歌枕を詠み込んできた多くの和歌をふまえているものである以上、歌枕や和歌などについての本書の
語釈・句解・解説の分量が増えるのは当然(^^) 芭蕉らの詠作意図を無視して作品を理解しようとする
アホや『古今和歌集』以来の「日本の文学的伝統」を否定する子規亜流の万葉バカには邪魔か(^_^;)
とはいえ、本書の章ごとの語釈、句解、解説は他書よりもヴォリュームがあるらしいけど、チラッと
読んだ限りでは、物足りない気もしないわけでもない(@_@;) そこで、本書の「白河の関」の本文と
現代語訳を引いてみる(@_@;)
心許なき日かず重なるまゝに、白川の関にかかゝて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と
便求めしも断也。中にも此の関は三関の一にして、風騒の人心をとゞむ。
秋風を耳に残し、紅葉を俤[おもかげ]にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、
茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めし事など、
清輔の筆にもとゞめ置かれしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良
待ち遠しく心せかれる旅の日数が積もって行くうちに、白河の関にやっと来て、
やっと旅の心も落ち着いた。昔、平兼盛がここまで来て、「この関を越えた感慨を
なんとかして都へ知らせたい」と、幸便を求めたというのも、もっともなことである。
古人が感慨深く越えた数多くの関所の中でも、とくにこの白河の関は三関の一つであって、
古来風雅を愛した詩人・歌人が関心を寄せ詩歌を残している。能因法師が詠んだ
秋風の音を今も耳に聞き、源頼政が詠んだ紅葉の情景を眼前に思い浮かべながら、
いま目の前に初夏の景色をながめると、青葉の梢もいちだんと情趣深いものがある。
古歌に詠まれた卯の花が白く咲いている上に茨の花が白く咲き加わって、雪景色の白さ
よりも白さが上まわっているような気持がする。昔の人がこの関を越えるとき、
冠をきちんとかぶり直し、衣服を正装に着替えたことなどが、藤原清輔の文章にも
書き留めて置かれたということである。
この白河の関を越えるに際し、古人は冠をかぶり直し正装に着替えたそうであるが、
いま自分には冠や着替えの用意はない。道端に白く咲いている卯の花を折り取って
かざしとし、それを関越えの晴着としよう。 曽良
一見して判るように、本文には出て来ない平兼盛、能因法師、源頼政の名が現代語訳に出てくるのは
本文が彼らの詠んだ和歌を下敷きにしてるからで、それらの和歌その他のことが語釈で指摘されれば、
本文&現代語訳が1頁半なのに対し、語釈は5頁、句解&解説も1頁余りもあるのも当然のことかと(^^)
本書の「古人冠を正し」の語釈を次に引くが、おそらく他書・類書に比べたら記述量は多そうだけど、
それでも小生には不充分に思えた(@_@;)
藤原清輔著『袋草紙』(貞享二年刊)巻三に「竹田大夫国行ト云者、陸奥ニ下向之時、
白川ノ関スグル日ハ、殊ニ装束ヒキツクロヒムカフト云々、人問ヒテ云ク、
何等ノ故ゾ哉。答ヘテ云ク、古曽部ノ入道ノ、秋風ゾフク白河ノ関ト読レタル所ヲバ、
イカデカケナリニテハ過ギント云々。殊勝ノ事歟」とあるのによった記述。
竹田大夫国行が白河の関を過ぎる時、能因法師が「秋風ぞ吹く」と詠んだ所だからと
敬意を表し、平服を正装に改めて通ったというのである。「冠を正す」は、
冠をきちんとかぶりなおすこと。
「貞享二年」=1685年は『袋草紙』の流布本である板本の刊行年で、『袋草紙』はモチ平安時代末期
の歌学書(^^) 『袋草紙』の上記引用部分も小沢正夫&後藤重郎&島津忠夫&樋口芳麻呂『袋草紙注釈
上』(塙書房,1974)の通釈で引いておきますか( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
竹田大夫国行という者は陸奥に下向した時に、白河の関を通る日には装束を改め、
水で鬢の毛をなでつけたという。人が「どういうわけか」とたずねると、彼は
「古曽部入道[能因法師]が『秋風ぞ吹く白河の関』という名歌を詠んだ所を
どうして平素の服装で通ってよかろうか」と答えた。まことに感心なことである。
本書の語釈の上記説明だと竹田大夫国行(勅撰歌人の藤原国行)が少し変人みたいに思われそうだし、
何に対しての「敬意」なのかもチト解り難いかと(@_@;) 『袋草紙』の当該節の数行前に出てる逸話
から本書は解説すべきだったと小生は思うわけC= (-。- ) フゥー 小沢正夫らの前掲書の通釈を引く(^^)
・・・/人々が大原という所に行楽に出た時に、みな馬に乗っていたが源俊頼
[『金葉和歌集』撰者]が急に馬を下りた。驚いてそのわけをたずねたところ、
彼は「ここは良暹法師[勅撰歌人で『小倉百人一首』にも]の古い坊の跡である。
どうして馬を下りないでよいのか」と答えた。これは能因[法師]に先例があるだろう。
能因は[藤原]兼房[勅撰歌人]の車の後に乗っていた時、二条東洞院でにわかに下りて
数町を歩いて行った。兼房がびっくりしてたずねると、能因は「ここは伊勢の御
[ナンバーワン女流歌人の伊勢タン]の家の跡である。彼女の家の中庭の枝を結んで
祈願をこめた松の木が今も残っている。どうして車に乗ってその前を過ぎられようか」
といって、松のこずえが見える間は車に乗らなかった。・・・
つまり、能因法師が伊勢タンに対し、源俊頼が良暹法師に対し、それぞれ「敬意」を払ったように、
竹田大夫国行も優れた歌人である能因法師に対し「敬意」を払ったわけ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
モチ本書もこのことを解っていることは、曽良の句についての本書の句解の次の一文から明らか(^^)
・・・故事を踏まえたところに、白河の関に「心とゞ」めた「風騒の人」に対する
挨拶の気持ちがある。・・・・
ところが、この「敬意」が向けられた先についてトンチンカンな解釈をしてるのが苑子タン( ̄◇ ̄;)
杉本苑子『おくのほそ道 人物紀行』(文春新書,2005)から問題の件を引くオホホホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
・・・/芭蕉も『袋草紙』を読んでいたからこそ、まさか冠を正し装束を改めは
しないまでも、曾良の句のように咲きさかる卯の花をひと枝、衿もとにでも挿して、
関守りたちへの、せめてもの敬意を表したのかもしれない。/ちなみに、
『袋草紙』には、竹田の大夫国行という者が、能因の歌に敬意を表し、
白河の関を過ぎる時、ことに身なりを整えて通ったという話が記されている。/
「能因ほどの歌詠みが、〝都をば霞とともに立ちしかど〟の名歌を遺した白河の関を、
われらごときが、旅疲れしただらしない恰好で通過しては、関所に対して失礼だ」と
烏帽子の誇りをぬぐい、小袖の衿もとを掻き合わせなどしたのだろう。/
名歌への敬意が、関への敬意につながり、そこを通過する旅人自身の、疲労も、
いささかだらけはじめてもいる心身を、きりッと引き緊めてくれたうれしさ……。/
この章での、曾良の一句、/卯の花をかざしに関の晴着かな/も、おもしろい。/
「わたくしどもは、しがない行乞の旅人、高価な衣服は持っておりませぬ。
せめて咲きさかる卯の花をひと枝かざして、お関所への敬意をあらわしとう存じます」
/・・・
「関守りたち」「関所」「関」「お関所」への敬意のわけがないだろヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
・『おくのほそ道』の遊行柳の件の西行の歌について苑子タン、また調べずに書いてるよ(ノ_-;)トホホ…
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-07-11
・光源氏に我が身を重ねた芭蕉を「蛸壺の中で眠るタコの気分になっている」と俳人の坪内稔典(゚ロ゚;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-07-04
・伊勢タンが後世の歌人から如何に尊敬されていたかという逸話と牛車の乗車降車の作法について(^^)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-06-11
専門知識のある人の意見って面白いですよねぇ( ^ω^ )
平凡で通り一遍の知識しかない私は
「へぇ、そういう意味だったんだ(°_°)」って
思うことが多々有ります=(^.^)=
枕、かみさんがハワイのホテルの枕が気に入ったので調べてたら
「寝心地の良さは枕だけじゃなく、マットとの関係も重要だから
マットも同じのにしないとダメだと思うよ(´・_・`)」と言われ
諦めました(⌒-⌒; )
枕だけならまだしもマットは無理w
by ニッキー (2019-11-17 18:54)
専門的知識の持ち主であっても、ある特定の立場からの発言だったりして、
ポジショントークにすぎないじゃん、自分の立ち位置を明らかにしてから
書いてよ、と思うことがあります(^_^;) たしかに、枕はマットとセット
じゃないと寝心地は違うでしょうね(^_^;) 体型も10年前と違うし^_^;
by middrinn (2019-11-17 19:20)
能因はたしか、都に隠れいて、行ったことにして
白河の関の歌を作ったのでしたね。
わたしも数年前、ふと思いついて白河関跡に
行ってみました。
by 爛漫亭 (2019-11-17 21:58)
「語釈等が多すぎて作品の鑑賞を妨げてる」原文読めばいいのに・・・
私も、伊勢の御の家の前ではバイクから降りないと。
by tai-yama (2019-11-17 23:11)
その逸話は『袋草紙』が紹介して流布しましたけど、
藤原清輔はちゃんと能因が奥州に少なくとも一回は
旅したことは事実と同時に指摘してるんですよ(^^)
爛漫亭様が白河の関の趾を今の位置に定めたのは松平
定信と前に教えて下さったのを憶えております(^^)
by middrinn (2019-11-18 06:31)
そのレヴュアーは語釈等が少ない岩波文庫版を推奨してますね(^_^;)
tai-yama様、バイクを降りられる時には作法にも御注意下さい(^o^)丿
by middrinn (2019-11-18 06:33)
おはようございます^^
枕、難しいですよね~選ぶの。どんなものを使っても眠れない(-- 幾つ買いなおしたことか!
今はバスタオル丸めて湯枕を上に置いて、何となく眠れる^^
皆様のご意見を読んでもいろいろご存じで、わたくしなどいつも
「へぇ~そうなの」っと驚きながら読ませていただいていろいます。
by mimimomo (2019-11-18 07:43)
診断してもらった上でのオーダーメイドがいいんでしょうけと、
高そうですし、マットの問題もたしかにありそうですね(^_^;)
へぇ~と思われるのは思考が硬直してないということかと(^^)
by middrinn (2019-11-18 07:49)