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190602読んだ本

犬がした糞をそのままにしていく飼い主がいて、歩きスマホの人だろうけど踏んだ跡があった(´・_・`)

【読んだ本】

中島輝賢『コレクション日本歌人選023 伊勢』(笠間書院,2011)

この「コレクション日本歌人選」のシリーズ、数巻だけ拾い読みした限りでは、著者は若手研究者で、
院で専門的訓練を受けたはずなのに、素人目にも歌の注釈・鑑賞や歌人の説明に間違いやデタラメが
散見される(-"-) 学界のボスたちが無能な弟子にも業績となるようにと著者に推した結果か(¬。¬ )

犬養廉&後藤祥子&平野由紀子(校注)『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店,1994)所収
の伊勢タンの家集『伊勢集』より、歌番号97~100の歌を詞書とともに引く(´・_・`)

       京極院に、亭子みかど[=宇多上皇]おはしまして、花の宴せさせ給ふに、
       参れとおほせらるれば、見に参れり。池に花散れり

    97 年ごとに花の鏡となる水はちりかゝるをや曇るといふらん

    98 毎春[はるごと]に流[ながる]る水を花と見て折[をら]れぬ浪に袖やぬるらん

       又日[またのひ]

    99 今日までは流れ出でぬを水上の花は昨日や散り果てにけむ

       かへし、季縄
 
    100 桜花ひとさかりなる物なればながれて見えずなるにざるべき

97は詞書に「花の宴」、歌に「花」、98と99の2首にも「花」とあるが、この「花」は全て〈桜の花〉
と解されている(^^) その理由は99の詞書に「又日」=翌日とあるので、99は宇多上皇の「花の宴」の
翌日と解され、99の伊勢の歌への返歌として藤原季縄が詠んだ100の歌に「桜花」とあるから(⌒~⌒)

この『伊勢集』の97と98の2首は、語句と詞書は異なるけど、勅撰集『古今和歌集』の歌番号44と43に
入っている(とりあえず小町谷照彦『古今和歌集』[ちくま学芸文庫,2010]に拠った)(^^)      

       水のほとりに梅の花の咲けりけるをよめる

    43 春ごとに流るる川を花と見て折られぬ水に袖や濡れなむ

    44 年を経て花の鏡となる水は散りかかるをや曇ると言ふらむ

『古今和歌集』の各注釈書は揃って両歌の「花」を詞書に従って「梅の花」と解しているv( ̄∇ ̄)ニヤッ 
同じ歌でも『伊勢集』では桜と解して『古今和歌集』では梅と解する、こーゆー歌を出典とか記さずに
引いてるアホが時々いるよね(-ω-、) それじゃあ、解かんねーだろーがオリャ!!(ノ`△´)ノ ┫:・'∵:.

43を本書22頁は取り上げ、「これは、川のほとりに梅の花が咲いているのを見て詠んだ歌である。」
と「鑑賞」の冒頭に記しながら、この「川のほとり」に付した「脚注」は次のような説明( ̄◇ ̄;)

    川のほとり──伊勢集によれば、宇多天皇が京極院という御殿で梅の花見の宴を
    催した時のものである。

「伊勢集によれば・・・梅の花見の宴」だとぉ∑( ̄ロ ̄|||)にゃんですと!? 前掲『平安私家集』の
この「花の宴」に付されている脚注三では「桜を賞翫する宴。」であると平野由紀子が説明してるし、
秋山虔『王朝の歌人5 伊勢』(集英社,1985)を披いても〈『古今和歌集』では「梅の花」とあるが、
[『伊勢集』で]「花の宴」とある「花」は桜である。〉と説明してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

次に44の奥村恆哉(校注)『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社,1978)の口語訳は次の通り(^^)

    鏡は塵が積って曇るものだが、毎年毎年、花を映す鏡となる澄んだ水面は、
    もし曇ることがあるとすれば、落花が散りかかるのを言うのだろうか。

「散りかかる」が「塵かかる」を掛けてることは、前掲『古今和歌集』、前掲『平安私家集』、前掲
『王朝の歌人5 伊勢』は勿論、片桐洋一『原文&現代語訳シリーズ 古今和歌集』(笠間書院,2005)、
片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』(講談社学術文庫,2019)、久曾神昇(全訳注)『古今和歌集
(一)』(講談社学術文庫,1979)、小島憲之&新井栄蔵(校注)『新日本古典文学大系5 古今和歌集』
(岩波書店,1989)が揃って指摘あるいは歌の訳に反映させている、同歌の解釈上のポイント(⌒~⌒)

ところが、本書24~25頁は同歌を取り上げるが、「口語訳」は「何年も経って、花の鏡となった水は、
花びらが散りかかることを曇ると言うのであろうか。」だし(24頁)、「鑑賞」「脚注」「補注」も
〈鏡に塵かかる〉ことには全く触れておらず、次のような解説がなされている(25頁)(゚ロ゚;)

    ・・・昔の鏡は金属製であったから、手入れが大変で、すぐに曇ってしまうものであった。
    この歌では、花びらが散りかかって、花が[水面に]映りにくくなることを、見立てた鏡に
    なぞらえて、曇るという表現を使い、いぶかしんでいるのである。・・・

「金属鏡というのは、ガラスの鏡と違ってほっておくとこうして表面に曇りができる。」とフジタも
「魔鏡とシリコン」(細野不二彦『ギャラリーフェイク 003』[小学館文庫,2003])で言ってた^_^;

[追記190603]

尻切れ蜻蛉な記事になっちゃってるので、この続きを以下に追記しておく○ o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

鏡が「金属製」ゆえ「すぐに曇ってしまう」としても、その変化が〈鏡に塵かかる〉と表現されてる
のだろうし、各注釈書も皆そう解しているのだから、本書も一言あってしかるべきだろうヾ(`◇´)ノ

更に、本書25頁は、上記の引用部分に続けて、次のように記しているので、呆気にとられた( ̄◇ ̄;)

    ・・・散る花びら越しの、ぼんやりとしたソフトフォーカスのような画面が、
    美的な世界を春らしく柔らかに包み込んでいる風景である。/さらに、
    このような風景は何年も続いていると表現されている。・・・

初句の「年を経て」は、「花びらが散りかかって」「水」が「曇る」という「風景」ではなく、「水」
が「花の鏡」となる状態が「何年も続いている」ことを指してんだよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
コレも各注釈書が一致する解釈(-"-) 本書と異なる文脈では、前掲『古今和歌集全評釈(上)』が、
偽作『和歌体十種』を紹介して〈・・・「両方致思体」の実体ははっきりしないが、例歌からすると、
掛詞を使って、自然の景物の描写と我が心の抒情の両方を述べた体[てい]であるらしい。とすれば、
「年をへて」「ちりかかる」に年が経って塵がかかる意をもう少し響かせた方がよいかも知れない。〉
と付言してるのも、「年を経て」は「ちりかかる」にかけないのがフツーであることを示してる(-"-)
タグ:和歌
コメント(16) 
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コメント 16

ニッキー

犬の落し物をそのままにする飼い主がいますが
ソレって大迷惑だし、犬も嫌われちゃう気がするのですが(*_*)
そんなこと全く考えてないんでしょうねぇ(ー ー;)
金属鏡の表面に曇りが出来るのは、銀製品が曇るのと同じような
感じでしょうか(´・_・`)
かみさんが昔「シルバーのアクセサリーって手入れが〜( T_T)」と
よく泣いてました(⌒-⌒; )
by ニッキー (2019-06-02 23:16) 

tai-yama

共著って文章を合わせるのが難しいのではと思ったり(笑)。
就職活動を遅らせるために、大学院に行っている人も居る時代なので・・。
by tai-yama (2019-06-02 23:40) 

saia

middrinnさん、お久しぶりです!
結局出発前に結局「紺青の拳」見に行かれなくて、残念でしたあ。
残念と言えば、進撃もこちらでは見れなくてアニメ版も段々佳境に入ってきたのに、どうなったか気になって気になって。。。
ちなみに私はリヴァイ・アッカーマンのファンです♡

by saia (2019-06-03 03:24) 

middrinn

他人の家の門の前にオシッコさせていく馬鹿もいますね(-"-)
タバコの吸い殻のポイ捨てと一緒でマジで迷惑行為ヾ(`◇´)ノ
ニッキー様に新しいの買ってほしいというアピールかと^_^;
by middrinn (2019-06-03 06:08) 

middrinn

コレクション日本歌人選は単著ゆえ共著より業績としての価値もあります^_^;
tai-yama様、そーゆー「モラトリアム人間」は死語かと思ってましたよ(^_^;)
by middrinn (2019-06-03 06:11) 

middrinn

おそらく、DVDなど円盤になったのを買って観るというのが
saia様の宿命なのかと(^_^;) リヴァイは、やっぱり人気者
ですねぇ(^^) 一緒にリヴァイ班に志願しましょう(^o^)丿
by middrinn (2019-06-03 06:20) 

oko

私はポケGOで歩くのですが時々落ちてますね・・・
そういう人は犬飼うなと言いたいです。何年か前まで
犬飼ってましたが、迷惑無く散歩してたつもりです。
よく犬の糞は飼い主が始末し・・みたいな
プレートがあちこちに貼ってあります。それが最近では
犬のトイレはなるべく家で済ませて来ましょうみたいな
文面に変わってて犬にも過ごしにくい世の中だなぁ・・と
思いました。
by oko (2019-06-03 06:30) 

middrinn

そーゆープレート、町内会が配布してて、拙宅も門のところに
掲示してますが、そーゆー文面のまで出ていますかぁ( ̄◇ ̄;)
せめて飼い主の方も門や出入口の前とか避けてほしいですね(..)
by middrinn (2019-06-03 06:56) 

mimimomo

おはようございます^^
犬の糞、ありますあります。飼い主ももう少し「迷惑」と言うことを考えてもらいたい。
踏んづけた後もたまに見かけます(ーー
梅だの桜だの・・・わたくしの頭が混乱いたしまする。
歌の解釈って難しいですね。
by mimimomo (2019-06-03 07:59) 

middrinn

糞のお蔭で歩きスマホが減ったりして(^_^;)
「花」とあったら直ちに「桜」と解釈するのは
誤りなこと、詞書などで何の花か決まることが
あるので出典は何かも大事ということです(^^)
by middrinn (2019-06-03 08:23) 

そら

桜の花見も寒いですが、梅の花見はもっと寒そう(^^;
犬の糞、最近はだいぶ少なくなりましたが、まだあるんですね!
気をつけなきゃ(^^;
by そら (2019-06-03 18:47) 

nikki

歩き読書をしていた二宮金次郎は糞を踏まなかったのかな。
by nikki (2019-06-03 19:21) 

middrinn

たしかに、梅が咲く頃は、まだ寒いですよね( ̄◇ ̄;)
そら様、その時は、運が付いたと思いましょう(^_^;)
by middrinn (2019-06-03 19:24) 

middrinn

nikki様へ( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 特製二宮金次郎座布団1枚 ♪
by middrinn (2019-06-03 19:25) 

enokorogusa

『伊勢集』と『古今集』とで、なぜ桜と梅との違いが生まれたんでしょうね?
『伊勢集』の方が私家集だし、詞書がより具体的なので、本来はこちらが正しい?
だとしたら『古今集』の撰者がなぜ梅としたのか?
伊勢は『古今集』編纂とほぼ同時代の人なので、昔の歌だからわからなかった、というわけでもなさそうですし。
ただ、『伊勢集』と『古今集』で順番が入れ替わっているのがヒントになるかも?
そもそも、こういうことはよくあることなんでしょうか。
不勉強でよくわかりません(^^;)

ちなみに高田祐彦『新版古今和歌集現代語訳付き』(角川ソフィア文庫)では、注釈で両歌ともに桜とも梅とも書いておらず、ただ「花」としか。『伊勢集』に入っていることとその詞書には言及してます。
by enokorogusa (2019-06-04 18:47) 

middrinn

興味深い着眼ですね( ̄◇ ̄;) たしかに伊勢タンは『古今集』撰者たちと
同時代ですけど、『伊勢集』は後人が編纂したもののようですよ(^_^;)
冒頭物語部分は「伊勢没後、十世紀半ば過ぎ、後人によって創作された
もの」だそうですし、「現存『伊勢集』の祖本は恐らく『後撰集』とほぼ
同時代か直後の成立とみられる。」と『平安私家集』の「解説」に^_^;
でも、たしかに『伊勢集』の詞書が詳しいことを考えると、『古今集』の
選者たちが、なぜ梅としたかが論点かも^_^; 紅梅は映えるからかも^_^;
by middrinn (2019-06-04 19:12) 

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