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161224読んだ本

金沢から在来線のみで帰京した2010年末に糸魚川駅での乗換で1時間待ちもヒスイ王国館で退屈せず(..)

【読んだ本】

城山三郎『鼠~鈴木商店焼打ち事件』(文春文庫,1975)所蔵本

承前m(__)m ③「今日、米騒動について最も権威ある研究書とされ、いわば米騒動の決定版ともされて
いる」井上清&渡部徹編『米騒動の研究』全四巻が、実は「事実の誤認または拡大解釈」による「憶測」
だらけで、また「すり替え」や「反対党による政策的攻撃」である点を看過してること、そして、同書が
引用・依拠する論文に出てくる「関係生存者の証言」は自ら証言者に問い質すことでソレらが「信憑性の
ない」ことを明らかにした部分が本書の白眉(゚ロ゚;) 「証言者がことわっているにも拘らず、大胆な断定
に持ちこんでいる。発言の真意を伝えようとせぬ圧縮ぶりである。予断に満ちた圧縮と言ってもよい。
何かを知ろうとしてより、ある結論のために、証言として書き添えたという感じである。/・・・この三人の
選び方も恣意的である。」と完膚なきまでKОし、桂芳男『幻の総合商社 鈴木商店~創造的経営者
の栄光と挫折』(現代教養文庫,1989)も〈・・・「(物証に代わる)証言の偽証性」、総じて[同書の]
学術書としての致命傷「牽強附会」をあば」いたとして本書を高評(^^) 当該論文はどうも「学生たち」
の調査に基づくものらしいし、また同書の編者はメチャ色の付いた歴史家だけど、それでも当時「権威」
があったことは想像できる^_^; ④本書巻末の「解説」の小松伸六は、「足で書く人、よく調べて書く
作家というほどの意味で」、城山三郎のことを足軽記者に倣って「足軽作家」とかつて冗談に書いた由
(^^) 本書は「つまり〝生きている〟資料にくまなくあたって、委曲をつくした鈴木商店史=大正社会史
を描くことに成功している、と私は考える。」とあり、全く同感だった(^^) 同時に、「ここには作者が
調べれば調べるほど、動けば動くほど、証言のくいちがいが出てくる絶望感がにじみ出ている。」から
厄介(..) 鈴木商店が米を買い占め・売り惜しみをしてるという事実に反したイメージを捏造して世間を
煽った大阪朝日の当時の社会部長・長谷川如是閑を訪ねて、「鈴木の買占めには、どんな事実があった
のか訊ねた。」が、如是閑老は「世間では皆言ってることだったな」と答えて、城山を「失望させた」
(+_+) 「世間は朝日が言っているといい、朝日は世間が言っているという。」との結論に(@_@;) 更に
鈴木商店の元関係者から「米騒動の原因についての意外な証言が飛び出て来た。」(゚ロ゚;) 関係者間の
〈証言の食いちがいに、わたしは右往左往する。東京・大阪間を行きつ戻りつするわけで、東奔西走と
言いたいのだが、感じとしてはやはり「右往左往」である。動けば動くほど、絶望的な気分になる。〉
(+_+) 「鈴木商店を構成するさまざまの人間タイプ。その人間間の葛藤が波紋を呼び、事件をつくる。
実から虚へ、虚から実が生れることもある。/客観的な事実とは何なのか。人間のにおいに染まらぬ事実
というものがあるのか。人間の言葉は、所詮、語るその人の世界しか語らない。/一つの米騒動はない。
米騒動はそれに関連した人の数ほどもある――わたしはまた、そうした思いにとらえられた。」(-_-)
「ビューポイントが違うと見えるものも違うのですね」と長瀬も『砂とアイリス2』でゆーてたよん(^^)
しかも、「記憶の中からは、もはや一つの真実というものは摑み出せない。人間の記憶は当てにならない
――そう言って済まそうというのではない。/事件を受けとめるとき、その人その人に、最初にわずかな
嗜好の相違があった。嗜好のちがいと言っても、たいしてまちがいでないほどの。/それが、年を重ねる
につれて、その人の人生とともに生き、育ち、且つ、老いて行く。五十年近い歳月が経ってみると、それ
はそれぞれの人の中で、一つのゆるぎない真実に固まってしまった。それぞれの人がその人生をたしかな
ものと思うのと同じ程度に、たしかな真実となっている。/わたしは、岩と岩との間ではじけ飛ぶ小石の
ような自分を感じた。」(..) 関係者への聞き取りによって歴史を描くことの難しさを自戒したわm(__)m

杉本苑子『悲華 水滸伝(二)』(中公文庫,2001)所蔵本

池田弥三郎『百人一首故事物語』(河出文庫,1984)所蔵本

どの作品も未完に終ってるけど、せめて『RUSH』の続きは読みたい(;_;)
タグ:評伝 歴史 企業
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